新しい年度が始まりました。実は,この3月下旬〜4月上旬に入院していたために,卒業生・修了生とお別れのあいさつができませんでした。また,4月に新しく入ってこられた院生さんとも,まだ,きちんとお会いする機会を持てていません。こんなことは,この大学に勤めてきた16年間の中で,初めてのことです。幸い,体調は回復しつつありますが,同僚や学生にも迷惑をかけることになりました。これは,普段の生活や仕事のやり方を少し見つめ直せ,という天からのお達しなのかもしれません。
ただ,院生,学部生の皆さんの研究の支援は,これまで通り,やっていきたいと思います。このところ,研究に取り組む学生さんには,次のようなことを言ってきました。「当たり前になっていることを批判的に見つめ直してみる」「自分から問を立ててみる」「教室の出来事を丁寧に記述・分析する」ということです(他にももっとあるけどね)。
学校教育の研究に取り組む私たちは,教師,学び手として,教育や学びという営みに長年関与してきています。しかし,私たち一人ひとりの経験はユニークで,しかも,かなり狭い範囲での経験です。であるにもかかわらず,私たちは,その経験を一般化し,「そもそも日本の教育は…」と大きく括って語ってしまいがちです。みなさんには,自分の経験を大切にしていただきたいのですが,同時に,自分の中で「当たり前」になっていることを問い直す,つまり,批判的に経験や出来事を見つめて欲しいと思っています(もっとも,当たり前のことって透明で見えないから批判的になれないのですが)。
そういった問い直しの作業から自分なりの問が生まれてくると思います。研究に取り組み始めた当初,頭に浮かんでくる問を紙に書いてみても,ぼやーっとしていて,答えようのない問いしか出てこないことがあります。苛立ちを覚え,自信をなくしてしまうと思いますが,それでも,自分自身で,問を生み出していく必要があります。問を生み出すということは,自分が研究しようとしている対象に対して,ある程度,理解ができていることが前提となります。私なりに言い換えると,問を生み出す作業は,当たり前だと思っていた現象を,批判的に理解していくことと,ほぼ同義だと思います。そして,批判的に理解ができていけば,研究はかなりできあがったことになります。
当たり前を問い直し,問を生み出すためには,オープンマインドで多く人々との対話を恐れない勇気と,多くの読書をこなしていく力量が必要です。他者と話すこと,読書をすることによって,私たちは,自分のぼやーっとしたアイディアに輪郭線を引くことができます。そして,自分がこれまで教室を眺めていたレンズ(=認識論,研究の枠組み)がどんなものか,意識できるようになります。自分が持っていたレンズが,案外,ピントが外れたものだったり,自分の信念とは異なるレンズだったことに気付くこともあると思います。そういった気づきは,とても重要です。そのためにも読書量を増やしてください。最初は、本に読まれてしまい,単なるお勉強,あるいは,理論の消費者になってしまうかもしれません。しかし,徐々に批判的な読みができるようになってきます。英語論文の理解は,時間がかかるかもしれませんが,そういった論文にアクセスできるのも私たちの強みです。
こうしてレンズが研磨されていくと,今まで以上に教室の現象が見えるようになってきます。しかし,ここでも対象に接近しすぎていないか,あるいは,対象に関わる自分を外部に置き去りにしていないか,ということにも注意が必要です。このemicとeticの見方を往復することは,とても重要です。teacher researcherであるからこそなせることだと思います。
現象が見え始めたら,それを適切な手法で,丁寧に記述・分析していきます。ここでの「丁寧さ」は,「手を抜かず,ずるをせず,手続きに沿って」という意味です。丁寧な作業の中から,生徒の学びや変容,そして,自分自身の変化を読み取ってください。そのためには,研究法や分析に技法を学ぶことも重要です。しかし,自分の問,レンズ(=研究の枠組み),手法は,常に連動しています。研究においてWhatとHowは分かちがたく結びついています。方法ありき,ではなく,自分の問,レンズ,とともにHowも考えましょう。「数字は客観的だから」という理由で,定量的研究に走ったり,逆に,「統計は苦手だから」という理由で,質的研究にとびつく,というのはいかがなものでしょうか。
以上のような研究のプロセスの中で,私のできることは,皆さんが考えをめぐらせ,それを吐き出すのをお手伝いすることだけですが,できるだけの支援はしていこうと思います。みなさんも,あらゆるリソースを活用し,自分で考えながら,しかし,独りよがりにならないよう,エキサイティングな研究に取り組んでください!