3月1日〜10日までウィスコンシン州のオークレアで実施した「海外教育体験実習」を終えて、帰国しました。私が引率で現地を訪れるのは今回が3回目。3回目ともなると期間中のスケジュールの運びもだいぶわかってきて、大きなトラブルもなく、スムーズに運ぶことができました。とりわけ、このプログラムを現地で支えて下さるみなさんの献身的なサポートがあったことが、10日間の実習を実りあるものにできた大きな理由です。学生たちを受け入れて下さるUWECのスタッフのみなさん、また、数日間一緒に過ごして下さるホストファミリーのみなさん、そして、現地の小学校の先生方に感謝したいと思います。参加した学生さんたちも、タイトなスケジュールの中、いつも笑顔でがんばってくれたことに対して、労いの言葉を贈りたいと思います。お疲れ様でした。
今回の旅で考えたことを書いてみます。この社会では、「グローバル化」という表現が、あまりにも無批判に使われています。「グローバル化、大事だよね。オリンピックあるもんね」と言われてしまうと、その意味を十分に考えず、「そう、そう」と答えたり、「だから英語使えないとね!」という話になります。自戒の念を込めて言うと、大学もその時流に乗っている(乗らざるを得ない)事情があります。
で、何が言いたいのかというと、今回、学生たちが、実習までにしっかりと準備した上で、現地で小学校で子どもたちとふれあい、コミュニティの人々と関係を築いて行く様子を見ていると、本当に豊かな経験をしているなあと思うし、「グローバル化」というかけ声が、ずいぶん陳腐に思えてしょうがないということです。
こんなことを書くと、「それは、短期間のステイで、現地のみなさんが『お客さん』として扱ってくれたから良い思いができただけでしょ。現実は、もっと厳しいし、そんな社会でサバイブできないのとダメなのだよ」という声もありそうで、それはそれであたっていると思います。でも、大切なことは、今回参加した学生が得た豊かな経験は、コミュニティの人々との対話や活動を通して新しい経験を受け入れながら、同時に、これまでの自分の経験を対象化できたからこそ得られたものだということです。あるいは、アイデンティティを見直しができたからだと言っても良いでしょう。さらに、私は言語教育に携わる人間ですから、そのようなプロセスの中で言語がどのように自分の成長を助け、反対に、struggleする原因となっているのかに気付くといった、<言語を通した他者や文化と私の関わり>を自覚することができていればもっと良いなと思います(だから、「なんでもいいから通じれば良い」といったスタンスは良しとしません)。
今回の滞在中、大学で受けたA. Wong先生のCritical Pedagogyの授業は、そういった意識を高めるきっかけになりました。私自身も、応用言語学の中で扱われるCPやアイデンティティ関連の書籍や論文(Canagarajah, Norton, Swain, などなど)はいくつか読んでいましたが、実際に、教室の中で語られる先生自身のナラティブ、さまざまな言語や文化をバックグランドに持つ学生さんのパワフルなストーリーを共有させてもらって、心が揺さぶられました。そして、言語とアイデンティティの問題を考えるということはこういうことなのだと、はっとさせられました。無邪気に「グローバル化!」と叫んでしまう日本の英語教育をあり方をあらためて考えた次第です。外国語として英語を学ぶ私たちは、<言語を通した他者や文化と私の関わり>を直接的に感じにくい位置にいると思います。しかし、それは程度問題なのかもしれず、自分と言語、他者の関わりを考えない言語教育は、それこそ、グローバル化が生み出しているさまざまな社会文化的なイッシューから目を背けているのかもしれません。
帰国したばかりのやや興奮状態(?)で書いている関係で、筆が滑っているところもあるかもしれませんが、今回の旅は、学生さんや現地の人々とともにいろいろと考えることのできた10日間でした。
しかし、時差ぼけの影響は深刻で、最後まで引きずっていた感じで、逆適応できるかが心配。これも年齢の影響でしょう。しんどっ。